なぜ二宮尊徳は農民から武士になれたのか?そのチート手法を紹介します。

2020年7月25日

チートというのは、斬新的手法によってゲームを容易、もしくはルールを無効にしてしまう行為を言います。

今回は、二宮尊徳(1787-1856年)が使ったチート手法を紹介します。

二宮尊徳はチーターだった。

チート行為を行う人のことをチーター(cheater)と呼びます。

二宮尊徳は江戸時代後期におけるチーターでした。

二宮尊徳の父は「栢山村(かやまむら)の善人」と言われる程の仁者でした。

しかし水害で家や田畑を失ってしまいます。

尊徳が13才の時、父が亡くなります。

その2年後母もこの世を去りました。

父母を亡くした尊徳とその兄弟は、親戚に預けられます。

土手に松の木を植える

水害により耕作地を失わないために尊徳は土砂崩れを防ぐ目的で、堤防に松の木を植えます。

尊徳12歳の時です。

一家離散後、尊徳は働きに働きます。

そして蒔(まき)を拾い集め町へ売りに行きます。

また藩士の家で働き給金をもらいます。

当時、蒔を売った代金や賃金労働に対しては非課税でした。

これも一種のチート行為です。

尊徳は19歳の時、貯金したお金で先祖伝来の土地の一部、900平方m(30m×30m)の土地を買い戻します。

開拓した田畑を小作に出す

江戸時代後期、新たに開墾した土地には年貢がかかりませんでした。

江戸時代はまだ飢饉のあった時代です。

幕府は耕地面積を増やすよう推奨していました。

しかし、自分の田畑を耕作しながら、開墾するのは相当の労力がいります。

そこで尊徳は開墾した田畑を小作に出します。

いまなら地上権を設定して使用収益してもらうような感じですね。

その間、尊徳は年貢のかからない荒地を開墾していました。

このチート手法を繰り返すことによって23歳になった時、尊徳は村で一番の大地主になっていました。

殿様に年貢の減額を申し出る

尊徳のチート手法は、小田原藩主大久保 忠真にまで伝わります。

忠真は尊徳を召し出し小田原藩領桜町領の改革を命じます。

君命とあらば・・・と、尊徳は所有の田畑を全て売り払い、桜町に赴任します。

尊徳は朝4時から起床し、農民の指導にあたりました。

しかし、農民は酒や博打に溺れる始末。

モチベーターでもあった尊徳は、農民のモチベーションを上げるため年貢の軽減を藩主、大久保 忠真に申し出ます。

年2000俵の年貢を、10年間年1005俵まで負けさせたのです。

百姓一揆が起ころうと、年貢の額は絶対下げないというのが江戸幕府の掟でした。

しかし、忠真はこの申し出を了承します。

桜町の農政に対して尊徳に全権委任したのです。

報徳金を作る。

この時代借金苦から土地を手放し、小作農になる農民が多発しました。

小作農はどんなに土地を耕しても所有することはできません。

よって小作農の農民は労働意欲に欠けていました。

小作農も自作農になれば、モチベーションもアップすると考えた尊徳は、農民から資金を募り基金を作ります。

資金を出した人々からは、貧乏な農民に金を貸しても戻ってこないのではないか、との反対意見も出ました。

尊徳は、10人の連帯保証人をつけることによって反対する人々を説得し、無利子で貸し出す報徳金を導入したのです。

報徳金のシステムは現在の信用金庫の基礎となりました。

そして桜町はどうなったか?

10年後桜町が納付した年貢は、1894俵でした。

目標の1005俵を大幅に上回る石高です。

これにより900俵近い蓄えもできました。

桜町は見事な復興を遂げたのです。

その後の尊徳

桜町の復興は幕府上層まで伝わります。

時の老中、水野忠邦は尊徳を幕臣に取り立てます。

尊徳はその後、600を超える地域の再建に携わりました。

その手法は、尊徳仕法として後の世代に受け継がれたのです。

まとめ

尊徳のチート手法は偉大です。

特に非課税の手法を駆使して、お金を貯め、その資金で土地を買い大地主になりました。

彼は自分のやりたい事とやるべき事が一緒だったので幸福な人生だったと思います。

尊徳は日光で改革の指揮をとっている最中、70歳でその生涯を閉じます。

生涯現役という選択肢もありますが、現代人の我々は、チート行為によりお金を貯めた後はアーリーリタイヤし、悠々自適に好きなことをして生きていくという選択肢もあります。

40代後半でそういう選択肢ができれば理想的です。

そのためには日頃からチート手法がないか、目を皿のようにして探し求めることが重要です。

最後まで記事を読んでいただきありがとうございました。